移民・難民・外国人問題

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かつて、日本人を「労働奴隷」や「性奴隷」にしたロシア(ソ連)!危機感を失ってはいけない!

 

確かに、そのとおり。

 

以下、全ての記事の赤字・太字は管理人による。

https://www.sankei.com/politics/news/180715/plt1807150005-n1.html

2018.7.15 07:50
【新聞に喝!】
摩訶不思議な「静観」 中国並みに対ロシア脅威意識を 神戸大学大学院法学研究科教授・簑原俊洋
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 先日、米ワシントンを訪問した際の話である。ドイツ政府主催のディナーに招かれ、駐米ドイツ大使による国際政治情勢を悲観する印象的なスピーチを聞いた。最大の懸念中国ロシアだと言い切る。大使は両国を法の支配と自由主義に基づく国際秩序に対する挑戦者だと位置づけ、われわれが尊いとする価値観を擁護するため一致団結して行動に迫られる日は必ず到来するという。1930年代の自国の歴史が念頭にあるのか、大使の話にはすごみと説得力があった。

 

 意外だったのは一外交官が公の場で、両国を民主主義に対する脅威として名指しし、明白に批判したことだ。私は日本の外交官ここまで(特にロシアに対して)厳しいスピーチを行うのを聞いたことない。これは安倍晋三政権がロシアへの経済援助と引き換えに、北方領土問題について何らかの譲歩を期待していることと無関係ではなかろう。

 

 ロシアによるウクライナ南部クリミア半島への侵略・併合国際法に反した武力による国境変更の試みであるとの事実忘れ去られ、同地の住人はロシアへの帰属を求めていたのだから致し方がないとの意見すら耳にする。こうした意見は、仮に沖縄の県民が中国への帰属を求めれば中国が同県に侵略・支配したとしても問題ないというような、暴論にもつながりかねない危ない考え方だ。

 

 先月参加したある国際会議でも、欧州を筆頭各国防大ロシアに対し厳しい言葉の放列敷いた。ロシアは北大西洋条約機構NATO)加盟国への偽情報拡散各種のサイバー攻撃を行い、イギリスでは軍用レベルの神経剤を用いて元スパイの暗殺を試み、その二次被害も起きている。アメリでも一昨年の大統領選にロシアが介入したことによる余波は続いており、マティス国防長官は今もロシアに対して厳しい言葉を向けている。

 

 にもかかわらず、西洋自由主義社会の本流から隔絶されているのか、日本ではロシアに対する批判あまり聞こえない。いつも中国を糾弾する右派勢力もロシアについては静かである。世論の全般的な無関心を反映してか、日本のメディアロシアの脅威語るのはまれで、言及しても中国と比較すれば雲泥の差がある。中国、ロシアともに自由主義をないがしろにする隣国であるにもかかわらず、扱いにここまで違いがあるのは摩訶(まか)不思議だ。

 

続き。

https://www.sankei.com/politics/news/180715/plt1807150005-n2.html

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 先週のこの欄で門田隆将氏は、「新聞はなぜ問題の本質を突かないのだろうか」と問うた。全く同感である。国際政治でも本質を突く報道は不可欠だ。日本を取り巻く国際情勢今後厳しさ確実に増していくという現実を、国民に啓蒙(けいもう)するのもまた、新聞の重要な使命なのだから。


【プロフィル】簑原俊洋

 みのはら・としひろ 昭和46年米カリフォルニア州出身。カリフォルニア大デイビス校卒。神戸大大学院博士課程修了。政治学博士。専門は日米関係、政治外交史。

 

ロシアは、何でもありの国だ。

 

本当に注意しなければならない。

 

第二次世界大戦で、ベルリン陥落後、ソ連兵が、女性(幼女から老婆まで)をレイプしまくった。

 

参考となる本。

ベルリン終戦日記―ある女性の記録

ベルリン終戦日記―ある女性の記録

 

 

日本人女性も、満州や、そこから引き上げる朝鮮半島などで、ソ連兵等によるレイプ被害にあっている。

 

数年前、テレビ放送があった。

奥底の悲しみ ~戦後70年、引揚げ者の記憶~ | KRY山口放送

 

これを紹介したブログ。

dametv2.cocolog-nifty.com

 

その他、性接待をさせられた日本人女性の話。長いのでリンクだけ貼る。

gendai.ismedia.jp

 

それから、シベリア抑留もある。

 

言葉を濁しているが、単純に言うと、奴隷にされた話である。

 

これは、適宜自分で検索を。

 

まあ、こんな国に対する危機感を持たないなんて、日本の平和ボケは重症である。

 

〈アマゾンへのリンク〉※朝日新聞低能ぶりが記載されている部分は赤字にした。

忘却のための記録―1945-46 恐怖の朝鮮半島

忘却のための記録―1945-46 恐怖の朝鮮半島

内容紹介


北朝鮮の凍土に寂しく眠る数万の御霊に捧げる

 

物語のはじまりは昭和20年8月9日。
ソ連は日ソ中立条約を破棄して、侵攻を開始。

 

鉄道員の父を持つ中学生の徹少年は、朝鮮北部吉州で終戦を迎えた。
終戦後もなお続くソ連軍の侵攻。徹少年一家も避難のため朝鮮南部を目指すが、途中でソ連軍によって足止めを食らう。

 

爆撃、復讐、襲撃、略奪、強姦、飢餓、極寒、病気そして脱出

 

過酷な運命の中で、祖国日本への生還を目指す引揚者の労苦を少年の目で描写。

 

いまなお朝鮮の凍土に眠る、望郷の想いを果たせなかった無念の日本人の御霊に捧げる慟哭の書

 

朝鮮引き揚げ体験記、30年以上の時を経て復刻!

 

本書の内容紹介動画をyoutubeで御覧いただけます。

youtubeで「忘却のための記録」で検索してください。

www.youtube.com

出版社からのコメント


鄭 大均(首都大学東京特任教授)による解説(一部抜粋)

 

『忘却のための記録』の著者・清水徹は一九三〇年、現在のソウル市龍山区に生まれた「外地」二世である。徹の父はやがて朝鮮半島最北の咸境北道の機関区に勤務するようになり、避難行がはじまったとき徹は羅南中学三年生だった。本書はその避難行を著者が回顧的に綴った作品で、非業の死を遂げた同胞を哀悼するとともに、そのいまわしい思い出を拭い去るために書いたものだという。

 

引揚げ者のなかでも、ソ連軍占領地域からの引揚げ者には特有の困難と痛ましさがあった。
とりわけ大きな悲劇に見舞われたのは満州在住の日本人であったが、清水家のように、北朝鮮在住の日本人の運命も過酷であった。なによりも不運であったのは、引揚げが一年以上も先送りされ、出国の自由が奪われたということであろう。
それがやっと開始するのは四六年十二月に入ってからのことであるが、多くのものはそれ以前に自力脱出を試み、しかし、その行路で餓死・凍死・伝染病死で亡くなったものが三万五千人ほどもいる。
清水家の場合も無傷ではなかった。五人家族のうち、日本に無事たどり着いたのは四人で、父は、四六年二月二十日、咸興の収容所で亡くなっている。

 

本書に記されている引揚げ体験はもう半世紀以上も前のできごとであり、したがって忘れられて当然のことといってもよいが、しかし、これは日本人が経験した最後のグローバル体験といえるものであり、ここには今日の私たちの歴史観や世界観に資するところが少なくない。本書に記されている清水家の体験は、今日でいったら、内戦の過程で国外への脱出を余儀なくされた二百二十万人以上のシリア人難民や、貧困や内乱や干ばつに絶望してヨーロッパに向かうアフリカ人難民の体験に似通ったものであり、また北朝鮮が舞台というなら、これは今日いう「脱北者」の先駆けのような体験であった。

 

にもかかわらず、引揚げ者たちの体験は今やえらく矮小化されて眺められているのだなと思わされたのは、赤尾覺氏(『咸北避難民苦難記』著者)からある体験を聞かされたからである。

 

氏は最近朝日新聞の取材を受けたが、北朝鮮地域で、なぜかくも多くの犠牲者が出たのかに、「餓死・凍死・伝染病死」と答えたところ、「炊き出しなど食料供給があり、衣料・寝具などの配給があるのに何故?」と反問され、絶句したという。「避難民とは、東日本大震災の被災者と同程度に考えているのだなと、がっくりきました」氏はいう

 

これではたしかにがっくりくるであろう。被災者といっても、東日本大震災の被災者が国民の支援に支えられているとしたら、北朝鮮からの引揚げとは、帝国崩壊の過程でいまや異郷となった戦場の地を逃げ惑う体験であり、収容所や避難所で生活するといっても、それは昼夜の別なくソ連兵が襲ってくる体験であり、家族や同居者が高熱にうなされ、土色の皮膚に変わり、ある日、ある一家が消えるように死んでいく体験であった。

 

そのような体験東日本大震災の被災者同程度のものと考えているとしたら、それはこの時代の被災者たちの体験著しく矮小化している。というだけではなく、今日のシリア難民やアフリカ難民の体験をもその程度に眺められていることを暗示しているのであり、だとしたら、私たちは今や世界の人びととの共感帯を失いつつあるのではないか。

 

『忘却のための記録』に戻るが、この本は静の本というよりは動の本である。
たしかに同書には悲しみの記述があり、死の記述があり、やがて死に無感動になる記述がある。
しかし徹は「今日もおれは生きているぞ! 」と命の力を感じる少年であり、生活に必要なものは何でも拾ってやろうと野良犬のように目を光らせて歩く少年であり、母を助けるためにソ連軍の司令部に残飯拾いに行く少年であり、また生きるために母の作ったかぼちゃ羊羹を道端で売る少年でもあった。

 

この本はなによりも、清水家の人々が不幸の合間に動き、働いていたことを教えてくれる本なのである。