ヨーロッパへ向かう難民は「ただの出稼ぎ」!ジプシーが「一刀両断」!
この本が、ある意味、正しいという記事。
世の中、ダマしあいだ。
※ 以下、全ての記事の赤字・太字は、管理人による。なお、記事中、元々太字だった部分は、アンダーラインで表示した。
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20161227-00148915-toyo-bus_all
「ジプシー」が見つめるヨーロッパ難民危機
東洋経済オンライン 12/27(火) 8:00配信
昨年からヨーロッパに押し寄せた中東などからの難民は、ほぼ同じ経路で欧州に入り込んでいる。“バルカンルート”とも呼ばれるこの経路は、はるか昔にロマ(=ジプシー)が移動に使った道である。
欧州を目指し殺到する中東アジアの人々を前に、現代のロマたちは何を感じているか。欧州難民危機の現状を、ロマとともに“バルカンルート”に追った。
※前回記事:「バルカン流浪の道は「留置場」と化していた」
(写真へのリンク省略)
■バルカンルート上にある「ジプシー」の町
マケドニアの首都スコピエ郊外に、シュトオリザリという町がある。町といっても約5万の人口を有し、その9割以上がロマ民族とされる世界最大級のロマ集住都市だ。
マケドニアはバルカン半島の中心部に位置している。南のギリシャと北のセルビアに挟まれ、バルカンルート上から逃れられない国。また首都のスコピエは北側の国境に近く、車で走れば数十分でコソボ、セルビアまで行き着く。
そうした地勢上、旧ユーゴ崩壊の過程で起きた紛争時には、バルカンの国々から大量の難民が流れ込んだ。ことさらコソボ戦争ではシュトオリザリに巨大な難民キャンプが作られ、国境を越えて避難する人々が収容所に収まりきらず、町なかまであふれ出していた。
バルカンルート上にあり、かつて難民に席巻されたシュトオリザリの町は、今回もまた多くの中東難民が押し寄せているのだろうか。
「シリアとかイラクの難民はここに来ないよ。あいつら通り過ぎるだけ。みんなドイツに行くんだろ。マケドニアに用はないさ」
市場で衣料品を売るロマの男がそう教えてくれた。
ロマ特有の長スカートをなびかせる女、馬車を操る男、羊肉ケバブの匂い漂う市場、そうしたアジア的な人の風景は相変わらず顕在だったが、中東難民との接点はこのロマの町にはないようである。
シリア難民への嫉妬心
「そもそも彼らは難民なんかじゃない。働くためにドイツに住みたい移民か、ただの出稼ぎだろ」
市場のロマの商売人たちは今回の中東“難民”について、かつてこの町にやって来たコソボ“難民”とはまったく違うと説明する。
コソボ紛争後、シュトオリザリにいた難民のほとんどはロマの人々だった。はるか東方からバルカンに入り、いつしかコソボやバルカンの地に住み着いたロマ。もはや帰る国をアジアに持たず、西欧への移民でもない、ひたすら逃れ来た定住者のロマ難民だった。
■難民と扱うか、移民としてか
セルビア・ハンガリー国境の難民キャンプで、なぜか人々の間でシリア人の評判は悪かった。
「シリア人の名前だと簡単に難民として扱われる。一緒に移動してきたのに俺たちより審査が通りやすいんだ」
もちろんシリア以外のパキスタン人やイラク人の言い分である。
たしかにEU当局の混乱は明らかだった。難民抑制の対策に、人道的保護を必要とする難民は受け入れるが、経済的理由の移民は本国に送還するとしていた。しかし、その難民か移民かを判断する態勢がなかなか整わない。
1951年に締結された「難民条約」(難民の地位に関する条約)において、難民とは「人種、宗教、国籍もしくは特定の社会的集団の構成員であること又は政治的意見を理由に迫害を受ける恐れがある」が条件とされる。
では、中東から来る圧倒的な数の、しかもすべからく「難民だ」と主張する人々を目の前にし、だれが迫害を受けている難民で、だれが仕事を求める経済移民なのか、ギリシャなどに急遽整備した難民認定センターだけで見極めるには限界があった。
バルカンルートの諸都市では、ある時期、ホテルに長期滞在する難民家族の姿は珍しくなかった。もともとカネを持っていた者、無理してカネをかき集めた者さまざまだろうが、着の身着のままの難民はむしろ少数派だった。
優雅な身分の「難民」の方が、多数派だ。やれやれ。
続き。
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難民と移民、出稼ぎ労働者が混ぜこぜ
そして、戦争から逃れる政治難民でも、外国で働きたい経済移民でも、どちらも国を越える移動を「運び屋」に頼った。ボートや車を仕立てて不法な越境を案内する難民ビジネス。ブローカーに少なくないカネを払ってでも“難民”たちはヨーロッパを目指した。
ドイツなどに到達した中には、まだ難民と移民の判別に厳しくなかった時期、カネを使い効率よく移動した"難民"が数多く存在するという。
「シリア人は危険だ、テロリストがいる。俺はドイツに行って仕事したいだけなのになぁ」
すんなり難民認定されたシリア難民への嫉妬心もあるのだろう。バルカンの難民キャンプで足止めされるパキスタン人は、憤りと偏見ついでに、自身が経済移民に過ぎないことをうっかり吐露した。
欧州を目指す“難民”の列には、アフリカをはじめ中東地域以外の人々も多く存在する。さらにはアルバニアやコソボ、セルビアといったバルカンルート上から加わる者も。パスポートを持たず、持っていても偽造だったり。
出身地も民族も別々で、難民と移民と出稼ぎ労働者と、ひょっとしたらテロリストだって混ぜこぜなのが、バルカンルートの“難民”の実態だった。
■「流浪の民」の定着の仕方
ロマたちもこの“難民”には含まれている。
ドイツは昨年、難民認定を受けられなかった9万人の難民申請者と非正規滞在者をセルビアに送還した。国際人権団体アムネスティ・インターナショナルの調査では、その多数がロマ民族だったとしている。
ロマとは、西インドを起源とするエスニックマイノリティである。少数民族としてくくられる、ひとつの民族集団。よく「流浪の民」と語られるロマだが、彼らはそのライフスタイルで規定される集団ではない。すでに多くは定住し、移動生活を続ける人たちはまれだ。
ヨーロッパのどこに行っても嫌われ者のロマ
なぜアジアの故国を出て、西への旅を続けたのかは不明。ただ、ヨーロッパ全域に広がったロマは、その土地の宗教を受け入れ、その土地の言語を使いこなし、それぞれの土地に居場所を作っていった。だから、ロマにはカソリックもプロテスタントもムスリムもいる。
それでも彼らはヨーロッパのどこに行っても嫌われ者だ。社会的、制度的な差別もあり、失業率も高い。しかし逆説的だが、その嫌われ方の定着ぶりを見ていると、長い年月をかけロマはそれぞれの場所で、それぞれがもうヨーロッパの一部になっているとも思える。
「シュカール・アカテ(ここはすばらしい)。ロム・ブート(ロマの人たちが大勢いるからね)」
そうロマニー語で話すロマの男にシュトオリザリで会った。彼は難民としてドイツに行って、家族と住んでいたことがあるという。キリスト教徒でドイツ語も堪能だった。
■それでもロマは迫害される
最近ドイツから戻ったという男は、自身の経験をふまえ、欧州で目の当たりにするロマと中東難民の現実を話す。
「数が少ないうちはいいんですよ。ヨーロッパの人は難民か移民か関係なく、結局は異質な存在のわれわれを受け入れません。これだけ長くそばに住んでいるのにロマは迫害されます。中東難民がイスラム教徒ならなおさらです。多数になって脅威になれば排除します」
ばらばらだった中東の難民や移民が、「イスラムの塊」となって見え感じたとき、「ひとつの欧州」は別の顔を彼らに向け始めたのだった。
(写真:すべて著者撮影)
※(下)に続く
木村 聡
結局、キレイごとだけでは、上手くいかないということだろう。
どんなに美辞麗句を並べても、どこかの時点で、必ず、ひずみが生まれてくる。
☆☆☆
そもそも、ウソをついて(偽装難民になって)、ヨーロッパに行こうという人たちが、ヨーロッパ社会の中に入ったとして、ウソをつかずに、ルールを守って、善良な市民として生活するだろうか?
頭がお花畑でない限り、そんなおめでたい話があるわけがないと分かるだろう。
日本人も、現実を見つめ、性善説だけで、外国・外国人を見ては、絶対にいけないことに、早く気付いてほしい。